
Review Santa Feまとめ
写真のレビューや審査の本質は、イメージの背後にある作家の意識を読み取ることにある。そしてそれを社会にどのように渡すのがいいのかを判断することだ。
例えば、単写真の評価とポートフォリオレビューの評価とはおのず異なってくる。単写真の場合は、基本的な写真の技術をまず見ながら、イメージの強さをその写真の被写体と写真家との関係性、被写体がどのように社会に渡されるべきかで推し量る作業をする。単写真の場合は技術がまずいとまず通らない。だからコンテストなどでは技術面からバッサリと落とされていく。次にイメージの強さ、つまりメッセージの強さを見ていく。ではイメージの強さとは何かというと、これは評価者の主観に訴えかける作家のたくらみであり、主観に入り込めるほど冷静で客観的かどうか、ということになる。難しいことを書くようだが、他者が見て優れていると感じられる写真は例えばさほど写真に興味のない小学生が偶然カメラを向けて撮ったものでも成立しうる。しかし、実際は写真家として応募してくるわけだから、社会から見て優れていると評価されるだろうと確信できるだけの思惟を示せるかどうか、他者に確実に届くものしか出せないと考える冷静さが必要だ。すぐれた単写真はいくらでもあるが、それらの上を行けるかどうかを冷静に客観的に信じる力がないと、結局どの作品よりも弱くなってしまう。
ポートフォリオレビューは写真シリーズのコンセプトやストーリーが選考の中心になる。もちろん技術も必要だが、技術をわざとずらしてストーリーを見せる手法もあるから、技術がどうのという問題は先送りにされることもあるだろう。レビュワーによって見方は異なるだろうが、本質的にはプロジェクトのその時代における存在意義やストーリーの興味深さ、こころに触れるものであるか、美しく整ったフォーミュラがあるかなどが評価されるだろう。作家性や世界観というものもあるが、作家性や世界観とは何なのかを考えてみると、作品を通して貫かれる美やストーリーの描きかた、作家のたくらみなわけだから、それを提示する写真家、見出す努力をする評価者は常に戦っているといえる。それらはその現場で撮影している作家の想いや作品作りの思想を想起させるものであり、それらの要素が作品から見て取れることがなにより大切なのだ。
僕自身他のレビューの経験が豊かにあるわけではないが、Review Santa Feは間違いなく世界有数のレビューだと思う。非営利でありながら質の高いレビューを提供し、確実に写真家が世界に渡っていけるようなシステムを構築しており、運営母体や思想は長年の開催で確立されたものだ。新しい表現とは何か、新しい写真とは何かを常に追求しつつ、写真活動を支援することにおいて必要なリソースを提供する強靭な財政もある。彼らがうたっている写真のコミュニティーを作っているという自負が写真家たちにポジティブな影響を与え続けているというのが何よりの証拠だろう。
実際、このレビューには50歳以上の参加者が多い。すでに確立した写真活動を有しているものも再び参加してくる。欧米の写真家は常に前を向いている。自分の居場所に甘んじることなく、新しい挑戦を続け、新しいシリーズが出来上がると必ずこういったレビューに身を置きにくる。そうすることで立ち位置を確認することができる、と多くの参加者は話す。また、当然新しい作品にふさわしい居場所を獲得しにくるのだ。そういう努力を重ねていないとファンが遠ざかっていくからに他ならない。僕はすでに確立している日本の写真家たちを海外の写真イベントの現場で見かけたことがない。彼らは現在立っているその居場所に甘んじているように見える。そこが居心地が良いとでもいうのだろうか。世界にも届かない平坦な写真の境地にいてどうやって高みで輝き、写真ファンを増やせるというのだろう。
日本にはどんなレビューがあるんだ?と多くの作家に聞かれる。日本にあるレビューあるいは写真の有機的な構造が世界から見えていない現実はこころに刻んでおいた方がいい。写真賞もしかり。海外から見てこれほどに写真活動の盛んな国はない。それにもかかわらず日本における写真コミュニティーの見え方が希薄であるのはどういうわけなのか、そういうディスカッションも必要だろう。
六甲山国際写真祭の経験も、たった2年ばかりの活動では何も言えない。しかし、写真というart/media/industry/criticに身を置こうとする人たちは、ただ撮影する、評価する、発表する、写真集を作る、ギャラリーで取り上げるという単純化された行いに終始してはいけない。その先に写真の総体に対する参加意識を持たなければならない。それぞれが勝手に恣意的に好き放題自分たちの利益のために活動しても、さして大きな実りは得られないだろう。営利企業が運営するそれは、豊富な資金こそあるのだろうが、その先にどんな風景が見えるのかがわからないほどアーティストや専門家たちは愚かではない。それぞれがどのような役割を果たせば写真の豊かなリソースを作り、最終的に日本の写真活動が点ではなく面で広がり、国内ばかりか海外の優れた活動を呼び込み、結果として社会に対して写真のすばらしさを伝え、社会からフィードバックを得られるようになるかを、知恵を持ち寄って議論すべき時が来ているのだ。小さなパイをたくさん焼いて小さな分前に甘んじるのか、大きなパイを社会という大きな窯で焼いて大きな分前を受け取るのか。どちらがいいのかは考えるまでもないことだ。
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